2010年12月21日火曜日

Bill Bruford引退宣言

大好きなドラマ-Bill Brufordが引退宣言をした!?

しかも、去年のことジャン!!

だっから、ケニアみたいな国にいると

こういった情報に取り残されてしまう。。。

別に情報に左右されたくは無いけど

いや~ショックだ。。。

現存のドラマーで一番好きだったから

いや~ショックだ。。。

日本滞在記 終わり

先日、新しいPCを初期化したら

写真も全部消えてしまい

本当はNgoma Japani率いる

マヴィ・マンジこと水川勝利君や

その仲間達と日比谷に

ベンダビリリを観に行った時のことや、

マンゴーの講義+ライブで感じたことなど

色々あったんだけど、、、

もう、書く気がしない

それよりも、Bill Brufordが現役引退って、、

どういうこと???

2010年12月20日月曜日

日本滞在記 つづき

さて、お互いに懐の寂しいままの録音だったが

流石!マンゴーの指示はテキパキしているし

ドラムとベースの二人もイイ感じ。。。

俺が入った分は昔の“レグバのようなもの”と

基本パターンはあまり変わらないが

ベースが“バキシンバ”風味を醸し出し

ドラムがカウベルと共に入った為

なんか不思議なノリになった。

高速の8/6? 8/6レゲエ?

後入れのカヤンバはすっぽ抜けるし、、、

ヘッドフォンの使い方が分からなくて

自分の音が殆ど聴こえないし、、、

色々大変だったけれど

向こう側で笑っているマンゴーやメンバー

そしてエンジニアの方々が“笑顔”だったので

まあ、いいっか! という感じ(笑)

因みに、俺もマンゴーもベース&ドラムの方も

み~んな同じ世代

こういう事実は、なんかミョ~に嬉しいよね!

2010年12月2日木曜日

日本滞在記 つづき

さて、今回の日本滞在は“研修”なので

本来は一切“お遊び”はなかった筈なのだが

所々で色々と隙をみてNgomaした

特に、マンゴーの録音に遊びに行けたのは

スッゴク楽しかった。。。

先述のムビラのイベントで久々の再会

後日、あらためて

マンゴーの新居に行って

着いてすぐに

何故か?太鼓叩いてた

で、そのまま翌日の録音に立ち会ったのだ(笑)

その日は、朝から荒れ模様で

現金と免許証が入った財布が

見つからず出発前に

マンゴー大慌て!!!

俺は余裕かまして

「大変だな...」とタバコ吸ってたら

俺も財布が見つからない!!!

出発ギリギリまで

ウロウロと探し回る。。。。

野郎二人がオタオタと

同じ所を何べんも

「どこだどこだ」

探し回る光景は

きっと可笑しかっただろう。。。。

全く、、、財布を失くすのも同時とは、、、

マンゴーも付き合いが良すぎるぜ

その後、依然としてお互いの

財布が見つからないまま

録音の為のスタジオへ

とりあえず向かった。。。。。

ヤッベ~なぁ、、マジかよ、おい。。。。











心配だわ~。。。

2010年11月26日金曜日

日本滞在記 つづき

第一週目の週末は

神戸で友人達が出演する

ムビラ ミュージック フェスティバル

へ行ってきた。

若いアフリカ音楽愛好家達が集まり

皆に色々と触発された。

現役離れ、アフリカぼけしている僕には

日本で頑張って親指せっせと動かしている

皆の姿は頼もしくも羨ましくもあり

Ngoma(太鼓)関係は劣勢なのかな??

と心配になったり。。。

この時のイベントは

やっぱり、兄弟分のマンゴーと

話には聞いていた

J・ンコシさんのNgomaが

やはり

ダントツで良かった。

マンゴーとはウガンダで会えなかったから

凄く嬉しかったし、さらに凄い所まで進んだ

今のマンゴーの姿は眩しかったなあ。。。

J・ンコシさんも噂に違わず

凄腕のNgoma人だった

奥さんも凄く素敵で

愛の溢れる

夫婦Ngomaを堪能した。

子供達がまた!可愛くて可愛くて、、、、

うんこ!チ~ンチン!!

ケニアに連れて帰っちゃいたいくらい

可愛かったな~。。。。

J・ンコシさんとは長いこと

話しは出来なかったけれど

腕も良いし

人の良さがビンビン伝わってきて

嬉しかった。

後は、、、

J・ンコシさんのステージ最後で

ロコレを叩いて人!!!

聞けばマンゴーの知り合いらしいが

この人も輝いていました◎!!

日本にも相変わらず

色が黒いだけの

似非アフリカンが居るけど

素晴らしい音楽家も増えて

日本人の愛好家たちも増え

この日は

ナカナカの収穫だった

うん。
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2010年11月25日木曜日

日本滞在記 つづき

今回の日本滞在は神戸がメインで

車の解体や研修自体が初めてのことが多く

それらを全部書くとなが~くなるので

他の事で特に印象に残ったことを書く

*豊田家の会話*

いや~本当にビックリした!!

今までも関西の友人宅に泊まり

いつも“普段の何気ない会話”の面白さに

感心していたが、特に今回はビックリした!!

豊田さんも奥さんも息子さん達も、、、

下手なTVを観ているより面白い

“ボケと突っ込み”が朝から晩まで続いていた。。。。

いや~本当に物凄い早さでボケと突っ込みを

繰り返していく。。。。たまに誰かがかむと

すかさず鋭い突っ込みが入る。。。。

豊田さんに言わせると

「大阪と神戸はちゃう」らしいが

本当に大阪の家族はみんな

こんな感じなのだろうか???

いや~、、、参りました。僕も滞在期間中に

結構、関西弁を話そうとして

長男の貴大君に稽古をつけて貰ったが

結局、100点を貰うことが出来なかった。。。。

くやしい。。。

因みに貴大君は9頭身の二枚目さんです。



全身写真が無くて、、、残念!

日本滞在記 つづき

さて、関空に着くと全身真っ白に決めた“ヤクザ”

じゃなくって(笑)親分“豊田”さんが待っていた。

勿論、S500の“ヤクザ・ベンツ”じゃなくって(笑)

お洒落なベンツで他の車をスイスイ抜いて

あっという間に豊田さん宅に到着!!!

奥様のミカさんにもご挨拶して

念願の“お好み焼き屋”に連れて行って貰った

まぁ~車屋を始めて初めての日本は。。。

“道路がキレイ!”“車がキレイ”でビックリ!!

見慣れた風景の筈なのに、、、不思議。。。

さて、お好み焼き屋は、、、生まれて初めての経験

最近では関東でも珍しくないそうだが

僕の記憶に「お好み焼き屋」は無かった。。。

元々、親分肌の親分は「これでもか!!!」と

色々な事を経験させてくれたので

この後、現場の厳しい研修にも関わらず

一回り肥えて帰国する事になるとは

この時は、思いもしなかった。。。。

日本滞在記 つづき

さて、ナイロビ~ドーハ間は日本人も目立たず

周りはエチオピア人と後ろに超美人のケニア人女性

う~ん楽しかった“時間よとまれ!”って感じ。

これがドーハまでのお隣さん

美人のケニア人スチュワーデスは隣の

口うるさい上司のチェックが激しく

写真は撮れんかった。。。

で、ドーハの空港内がこんな感じ



仮眠所は既に一杯だったので

6~7時間の時間をMP3を聴きながら過ごす

ツェッペリンとクリムゾンで全然退屈しなかった。。。



東南アジア系とアフリカ系がチョロチョロ居た。

上の写真が空港内の大きな食堂で

フライト待ちの長さによって食事券が貰える



で、これがそのタダ飯です。

期待してたほど辛くなく、、、残念!

コーラはケニアでは珍しいペプシだった。

さて、ここからドーハ~関空の間は日本人だらけ!

まあ、当たり前だろうケド。。。

関西弁の強烈なインパクトが印象に残っている

でも、なんで関西のオバチャン達はあんなに元気なんだろ???

日本滞在記 その1

今年の3月頃からハナシが出ていた一時帰国

年内は無理かなぁ~と思っていたら

親分の豊田氏が1年振りに来ケニアをし

その帰国にあわせ急遽決まった

何の準備も出来ないまま1か月

久々の日本で過ごしてきた。

出発前の酒席で携帯を失くし

電話番号の記録がパーになってしまったが

今度はちょっと奮発して良い携帯を買ったから

その携帯で撮った写真と共に

滞在を報告したい


これがJKA(ジョモ・ケニアッタ国際空港)で食べた昼飯

ビールは僕のお気に入りピルスナー。。。


これが空港内のカフェ”JAVA”です。

このカフェはケニア国内で大繁盛していて

お洒落だけれど”高い”のが不満の種だ。

普段、働いている事務所の近所にもあるけれど

僕はもっぱらその斜向いにある老舗”コーヒーハウス”を使う。

さあ~て!出発だー!!!

2010年11月10日水曜日

日本滞在記(笑)

先月

日本に一時帰国してました。

一応、今勤めている会社の研修と云う事で

殆ど、神戸の事務所にいたんで

出発前に考えていたほど

色んな人には会えなかったケド

これが“サラリーマン”の宿命なのだろう!!

出発前に携帯電話を失くし

沢山の連絡先も無くなってしまったが

新しい携帯を買う切っ掛けになったので

携帯の写真ですが

今回の日本滞在記を写真付きで!

報告します。

勿論、Ngoma関係もアリアリで!!

太鼓の種類 チャプオ 

チャプオは、、、あんまり語れない(笑)

あんまり上手じゃないから(苦笑)

ギリアマ族では先述の“Ngoma Za Pepo”等の

アンサンブルではチャプオが地味だけど

重要な位置を占める。

お隣のドゥルマ・ディゴ族達の方が

チャプオの位置づけが高いと思う。

技術的な事も彼らの方が細かいし

リズムの組み合わせ方も多彩だ。

僕はやっぱり、ギリアマ贔屓だから

そう云う時だけ“まあ、技術には興味ないし、、”とか言っている。

でも、僕自身、上手なチャプオ奏者のアンサンブルは

メインの太鼓が無くても気持ち良く

それは矢張り、ドゥルマ・ディゴ・ラバイ族等の人達の方が

圧倒的に上手だと思う。

チャプオは両面太鼓だからサスティンが豊かで

片面だけ叩いても面白い。

地べたに直接置くとダメだけれどね。

残念ながら写真が無いのでそれはまたの機会に!

匡哉が日本で相方を見つけて一緒に叩いているのかな?

兎に角、ケニア等の知られざる太鼓を学ぶ時

棒で叩く太鼓は別として

チャプオはその先の太鼓に繋がる

大切な太鼓だと思う。

2010年8月17日火曜日

太鼓の種類 ムションド その3

“BUMBUMBU”が“ブッ叩く”ような感じに対し

ムションドはタッチが非常に大事だ。

打面中央のムピラと呼ばれる黒いゴム?のようなモノが

この太鼓にユニークな音色の効果をもたらし

本当に変な音が出せるようになっている。

スラップ音も中央にムピラが張ってあるので

DjmebeやCongaのようなスラップは無理。

で、両サイドを使うか、手に角度をつけて手前で鳴らすしかない。

ムピラで凄く長いサスティンが得られる為

スラップ以前に、オープンとミュートやコンガのモフみたいな音を

駆使し、また、片手で圧力を加えベント音を出したりして

色々な音を生み出す事が出来る。

イメージ的にはインドのタブラのような感じ。

また、多くのギリアマのNgoma芸能でキメの多い

“GONDA”や“MABUMBUMBU”等では

構成としてムションドが号令を出し、それに対して

大勢のブンブンブが応えるものが多い。

5人以上の名手がブッ叩くブンブンブは

それだけで大地を揺るがすような爆音になるので

その中でも聴き取れるように、ブンブンブとは全く異なる

ムションドの音はソロ楽器又は号令用太鼓としては

必然だったのかも知れない。

また、これは後でもっと詳しく述べたいと思うけど

所謂、「一般的に認知されるAfrica音楽」としては

多分、米国のJAZZ屋達の影響があると思うが

*コール&レスポンスとポリリズム 。。。なんかの他に

“複雑なインテンポの中で太鼓と踊り手、


又は、太鼓同士の白熱する即興演奏の応酬” なんてのがある。

こういった無知から来る誤解は未だ根強いモノがあるし

早く地球上から消えて欲しいと切に願うが

そういった誤認識者達が聴いて????と思うのが

先述のGONDA等のNgomaであり

そいつらでも喜びそうなのが“Ngoma Za Pepo”なのだ

これはアンサンブルの構成としては

チャプオと呼ばれる2組の両面太鼓がベースのリズムを叩き

ダバと呼ばれる金物がテンポを出し

その上をムションド叩きがインテンポで

ある程度の約束の中でソロを叩くといった恰好だ。

このチャプオのアンサンブルだけでも色々と楽しく

それなりに奥が深いので、習い始めはこのチャプオか

ダバからはいから入る事が多い。

同じミジケンダのドゥルマやディゴ族も“センゲニャ”等の

Ngomaでチャプオを使うが、彼らはムションドの代わりに

複数の太鼓をマリンバのようにして叩くので

実にメロディアスなアプローチになる。

その太鼓のフレーズ等もチャプオ入りで構成されるようなので

ソロの太鼓が4つ+両面太鼓2組がキチンとチューンされている

必要があるように思える。

奏法も結構細かくて、それだけ音の同じような太鼓を

沢山使って出来あがるアンサンブルだから

ベースのチャプオはクリアな音で叩く必要があるのじゃないか?

そう僕は思っている。

一方のギリアマのNgomaにおいてはブンブンブとムションドと云う

強力な音を持った太鼓があるので、まあ、Ngomaの種類にもよるが

“Ngoma Za Pepo”においてはチャプオは“クリアな音”より

全体として“ウォーン、ムヮーン”と包み込むような音の方が好まれる

と思う。

だから、全体としては

ダバがザクザクとテンポを刻み、チャプオが2組でムヮーンとした

雰囲気で音の全体を包み込み

四方から大勢の歌のコール&レスポンスの中

踊り手に向け、又はそこに居る人達全てに向け

ムションドが音を解き放ち、ブンブンブで句点、着陸を行う。

まあ、こんなカンジじゃないかな?

初期の“Ngoma Tour”ではこの“Ngoma Za Pepo”を

一つのハイライトとして行ってきたが(模擬だけど)

ペポ・ムガンガ云々は抜かして単なるNgoma芸能と

として見てもギリアマNgoma文化の中で一番

先進国の“今、現在”にマッチしたモノだと思うけれど、、、、

まあ、スグ日本人や欧米人は俄かスピリチュアル主義に

なり易いから、、、、それはそれでスッゲェ面倒臭いので

流行んなくて幸い?かなあ。。。。

大体、毎回、僕に槍玉に挙げられるDjembeだってさ

日本では色々見聞を広めた挙句、やっぱりDjembeって言う人も

居るしさ、そういう人達はこれだけ猫も杓子もDjembeと流行ると

逆に可哀想になるよ。今の世の中、流行ったら廃れるからね。。。。

やっぱ、デカイ木切って、獣屠殺して皮剥いで、、、、て言う太鼓を

少しは大事にしようよって思うもんなあ。


2010年8月14日土曜日

太鼓の種類 ムションド その2

「マザンバヒのムションドは凄い!」

これが僕の相棒サイディとの共通意見だ。

アレぐらい凄いのはチョットいないな、、、

彼は父親か母親がディゴ族のハーフで

昔ながらの“ムゼーカヒンディ・ツァンジェ”のような

ムションド1本にブンブンブが1本(多くて2本)のスタイルを

現在の大中小のブンブンブを並べるスタイルに変えた張本人だ。

初めて彼の太鼓を観たのが第1回の“Ngoma Tour”で

「なんじゃ!こりゃぁ!!」と言う衝撃を受けた。

もう、全く次元が違う、としか言いようの無い「音」で

ムションドが早ければ“速射砲”のように飛び出し

他のカブンブンブ達と組み合わせれば“芋虫”のように這いずり回る。

終いにはカブンブンブ達を横に寝かせて

その上に座り、足も使い始めて自由自在に叩き始めた

まあ、兎に角、傍目からは

「かる~く叩いている」だけなんだが、、、、、

非常にちから力強い音で

1本の太鼓とは思えないほどの

バリエーションを持って語りかけてくる

いやぁ~凄い!御見それしました。

「手順は後追いで何とかなる」

「秘密はあの魔法のようなタッチだ」

これも僕とサイディの共通意見

だって、マザンバヒ出現以降

殆どのムションド叩き達が

ブンブンブの数を増やしたけれど

あの魔法のタッチが無ければ

ゼ~ンゼン、、、ダメ!!(苦笑)

僕はその後も何度か

Ngomaの名手達のお葬式とかで

マザンバヒの太鼓を聴いたが

彼がムションドを叩いた後

他の太鼓叩き達は

「ま、一服しよう」と叩こうとしない(苦笑)

巫女さん達も彼のムションドに翻弄され

「燃え尽きた」カンジになってしまっている。

そして、彼らは魔法使いみたいな感じなので

マザンバヒ自身も嫉妬によるゴタを避けるために

実に控えめで

サッと叩いて、サッと止めて、サッと去ってしまう。。。

う~ん、、、勿体無い。

マザンバヒがソリストで

僕とサイディがサイドを固め

ダバに凄い奴が入って

凄い巫女さん4、5人で日本行けたらさ

ガキのオママゴトで

「ブッ飛ぶ!」「最高!」とか言っている連中が

文字通りシロ目剥いてブッ倒れるか

硬直して動けなくなるようなモン

観せられると思うけどね

まあ、金が無いからムリか!!

カズング・マーシャとカズング・マザンバヒの

写真が無いのが、、、、、、、、、、

う~~~ん 残念だ。

お詫びにこれが正しいムションド叩きの姿勢

オッチャン!格好良い!!











2010年8月13日金曜日

太鼓の種類 ムションド その1

ムションドはスワヒリ語ではムソンドと呼ぶ。

が!僕の専門の他の民族ではソレは

“肛門”を意味するので

何となく気恥ずかしく「ムションド」と呼んでいる。

だって

「彼は凄いムソンド(肛門)使いだね~!」とか

「僕は飛びきり上質のムソンド(肛門)を3つも持っている」とか

、、、、、変じゃん?やっぱし(笑)

さて、そんな下品な話はこれぐらいにして「ムションド」です。

この太鼓はギリアマ太鼓の最強の武器と言っても過言ではない

素晴らしい太鼓であります。

長筒状のボディで

打面に付けたゴム(樹脂が主)のトリックが

この太鼓のキモです。

この太鼓を名人が叩くと、、、、太鼓が「話し始めます」

“GONDA”“MABUMBUMBU”等でも

この太鼓がソリストで、一番上手な人が叩くのです。

それぐらい難しい太鼓ですが

この太鼓があるからギリアマを選んだくらい

僕にとっては意味のある太鼓。

基本的にこのサウンド・システムを持った太鼓は

アフリカ大陸各地にあります。

下の写真はサファリがムションドを暖めているもの



























ブンブンブと比べると皮も薄くデリケートなので

こうやって音を確かめながら暖めます



























打面の黒い物体がキモなのです。

匡哉の演っているドゥルマ・ディゴ族らの太鼓

“SENGENYA”で使われる「ンゴマ・ンネ」

「チャプオ」とが複雑に絡み合いつつ奏でる

縦横無尽なプレイに負けない説得力を持つ

それも、1本の太鼓でだぜ?スゲ-だろ?

しかし!!!

それだけの名人が(僕も含め)日本で

ムションドを叩いた事は無い。

マビマンジこと水川君やブルケンゲ時代の匡哉

そして僕が3人が束になっても遠く及ばない

それだけこの太鼓の魅力は特別なのだ。

まだまだギリアマの太鼓世界には

凄いムションド叩きがゴロゴロしている。

その中でも突出した腕を持つ叩き手は

“MABUMBUMBU”カズング・マーシャ

“Ngoma Za Pepo”カズング・マザンバヒだ。

カズングの親父はムゼーマーシャで

ムゼーランドゥの少し後の世代の

“MAMABUMBUMBU”の名人だ

大体、この辺の世代のNgomaの名手は

各人のペポが憑り付いていて

それと一緒に神懸かり凄いNgomaを演じる

ムゼーランドゥのペポは本人みたいに

お茶目で豪快!!だけれど

ムゼーマーシャのは狂気じみた感じだ

ちょっと怖い。。。。

武道家でもある水川君が

師事したのもこの人で

練習がグヮ-!!ッと盛り上がりところで

ミスでもしようもんなら、、、、

ああ、考えただけでも恐ろしい。。。。。

水川君も習い終わってナイロビに帰り

日本に戻っても暫くは写真であっても

ムゼーの顔を直視できなかったという。。。。

そんなムゼーマーシャが大事な演目“KIGANGA”において

自分のパートナ-として連れ歩くのがカズングだ。

まだ、20歳ソコソコじゃないかな?

今年の初めに某有名グループのダンサーが

ウチの村に来てDVDの撮影を行った時

久々にカズングの太鼓を聴いたが

またスケールのデカイ太鼓叩きになっていやがった。 

全く、イヤなガキだ(苦笑)

そして、“Ngoma Za Pepo”の稀代の名手

“カズング・マザンバヒ”

この人は、、、、す、す、す、、、凄い。 

太鼓の種類 ブンブンブ その3

これがウチの村の太鼓頭・新旧二人


                            
手前がシャウリで奥のサル番長似のカメラ目線がロバートさん

現在、ロバートさんはこの村を出て、ガンダにある自分の村で

活動を続けている 。僕がNgoma Tourを行いムゼー・ランドゥの

「キガンガ」を演じて貰うには必要不可欠な人だ。

ムゼーは自慢の息子“天才カタナ”が居るけれど、

やっぱり、「キガンガ」は新作より、古い曲の方が面白い。

良く出来ている作品が多いと思う。

こういった曲は幾ら天才カタナと言えども叩けないから

ロバートさんはとっても大切な存在だ。

“今、現在”も現役で新曲を創作し続ける80代!

ムゼーランドゥは自分の新曲が一番大事だろうが、、、

“ムゼーコータ”や“カリサ・シリア”“ムゼーブンゴ”達

僕がこの世界に入った時には既に亡くなっていた

MABUMBUMBUの伝説的名手達の曲は

やっぱり、、、格好良い。

一方、シャウリは僕と同い年で

この村にちゃんと関わり始めた頃には

既に太鼓若頭として才能を発揮し

「ああ、、こいつが後を継ぐんだろうな」と思ったが

その後、村の金を惚れた女に注ぎ込み

村を追い出されてしまっていた。。。。

それからはムゼーカデンゲのGONDAや

ムゼールベンのNAMBAのグループで叩き

“Ngoma叩きの一匹狼”としてキャリアを積み

Ngomaの腕一本で渡り歩いたことが

良い方に作用して

更に強力なNgoma叩きとして帰って来た。

勿論、このキッカケは「Ngoma Tour」だ。

最初、頑なだったムゼーも

3年目かな?村に立ち入る事を許し

4年目には村に復帰できた。

彼はサファリの兄貴で

弟、後輩達のような“爆音”は無いけれど

正確なタイム感と曲やアンサンブルの理解度

タッチの種類等でやはり一つ抜きんでている。

“GONDA”“NAMBA”そして“MABUMBUMBU”と

よくもまあ、 これだけの曲を覚えたもんだ、、、と感心する。

それぐらい各種Ngomaの曲を知っている。

特に、僕がこの世界に入ったキッカケの

“GONDA”も叩けるという事で

僕自身が勝手に贔屓しているのかも知れんけど。。。。

そんなシャウリがGONDAのフルメンバーを従え

最高に格好良かった時の写真がこれだ!

“KIGANGA”が名人の優れた個人芸であり

噺家の名人芸に近いのに対し

“GONDA”は大勢による大掛かりな

ギリアマ式オーケストラだ。

日本での再現は不可能に近いが

僕が一番好きなNgomaでもある。

太鼓の種類 ブンブンブ その2

これがサファリ




これがジョロだ。




二人とも生粋のブンブンブ叩き。

爆弾のような凄まじい音圧ならジョロで

太鼓全体の腕にかけてはサファリに軍配が上がる。

この二人が如何にして“爆音”を得たか、、、

その秘密を知るには

昔、ゲデ遺跡内に村があった頃まで遡る。。。。

当時は今と違い遺跡に来る観光客相手に

結構、商い(Ngoma)が繁盛していた。

シーズン中には朝から晩まで叩き続ける毎日、、、

当然、二人の手はボロボロになる。

ムゼー(長老の意)の手は別物だから

幾ら叩いても大丈夫。

だから、二人はボロボロの手のまま

休むことなく叩き続けなければならない。

ある日、サファリとジョロは考えた

「太鼓に穴が空いたら休めるかも、、、」


「少なくとも新しい皮を張り替えるまでは、、、」

太鼓自体が壊れたら仕事にならないが

皮ならスグに手に入る。

そこで二人は疲労と手の痛みを力瘤に変え

アホみたいな勢いで叩き続け

遂には村中の太鼓の皮を全てブチ破り

見事、休みを勝ち取ったとさ(笑)

あはははははは!!! アホだ。。。

でも、カッコイイじゃん?

俺だったらズルいから

仮病を使うか、皮に細工して破るだろうな

この二人はそんな小賢しさは一切なく

太鼓と真っ向から勝負を挑み

若さと体力でブチ破っていく

爆音は歌い手や踊り手にも飛び火して

Ngomaはより一層盛り上がる。

元々、ハードヒッターの多いギリアマ族でも

元祖“爆音”みたいなムゼーだから

「もう少し、弱く叩け」とは言えない(苦笑)

最近は皮も高くなり

この二人の「撃ち抜き打法?」も禁止!

みたいな雰囲気だが

その音圧たるや、問答無用の説得力で

「棚から牡丹餅」の必殺技!として

ここぞ!と云う場面では

今でもその“爆音”を聴かせてくれる

また、純粋なガキ共にはもっと強力に

この爆音が影響して(笑)

ウチの村のガキ共の大半は

タッチ、サウンド・コントロール以前に

太鼓を「ブッ叩く」事から始める(苦笑)

それが音楽的か?どうかは別として

こういった、圧倒的にバカバカしくも

突き抜けた説得力に

惹かれてしまうのだ

俺は(苦笑)

2010年7月28日水曜日

太鼓の種類 ブンブンブ その1

今まで僕が教わってきた楽器の説明をしよう

先ずは“ブンブンブ”から紹介したい。















上の写真でガキが叩いているのがそう。

叩き方も理想的な正しいフォームだ。

皮は固めで厚めの獣皮を張る事が多いが

最近は色々面倒なので大抵は牛皮を張っている。

サイズは色々で、元々は小さい物だったと思う。

それがKAYAを出てNGOMAの種類が多様化し

マシンダノ等のギリアマ文化が花開いた時期に

徐々に大型化していったと思われる。

最近は木が少ない、皮が高い等の理由で

ほぼ全てのブンブンブの大きさが決まってきた。

まあ、故・石川晶氏曰く

見た目そのまんまの

「木を刳り抜いて、皮をベタッと張っただけ」の太鼓だ(苦笑)

それがこの太鼓の一番の魅力であるし、ある意味弱点でもある。

基本的な音色はDjembeと同じ3種類で

オープン・ミュート・スラップしかない。

音の分離が難しく、オープン・ミュート共に低音系なので

Djembeのような派手なソロには向かないが

名手が大勢でユニゾるとまるで「大砲」のような低音を響かせる。

合理的・幾何学的なフォルムを持つDjembeとは

正反対の位置にあるので

デカイ音を出したければ「ブッ叩く!」感じになる。

ハードヒッターが多いギリアマ族でも

特にこの村はハードヒッターが多くガキの時分から

先ずは「ブッ叩く」事を学ぶ

上の写真もあの振り上げた高さから

若しくは肩も使い頭上高く振り上げた腕を

バレーボールのアタックさながら思いっ切り

腕をフルスイングで撃ち下ろす(笑)

通常の日本人はそこまで度胸も無いから

途中でスピードを緩めたりするんだが、、、、

本当に「大砲の音」を求めるならば

やはりフルスイングでイカなければ駄目だ!!

それじゃ手が壊れるって言う人は

ハナから叩かんでよろしい

そんな太鼓だ。

タッチの感覚もミュート音を多用するので

ゥドゥッ!!と空気が抜けるような音を出すには

打面から5cmぐらいメリ込むような感覚で

撃ち抜き、且つその振動を押さえ込まなければならない

だから細かい技には向かないし、ソロ楽器でもない。

太鼓自体の持つ“イカツさ”で楽器に触る前に

人を選んでしまう。

昔、大西匡哉君の店に置いておいた

僕のブンブンブ には訪れるDjembe客も

「見て見ぬふり」をしていたらしい(笑)

だから、REMOが流行りのドラムサークル用に

“ファイバー製ブンブンブ!”を作る事は先ず無いだろう。

ウチの村のJORO君やSAFARI君ら若手で

精力の有り余っている連中が叩きだす一発

これにシビれちゃった人達は多い。

まあ、音楽的か?どうかは別として(苦笑)

所謂、ハードヒッターと呼ばれる人達の生音を聴いてきたが、、、、

あはははははは!!!嘘ばっかりだ。

女の腐ったような音ばっかじゃねぇか?

元々鳴り易く出来た太鼓で大音量も無いもんだ

「木を刳り抜いて、ベタッと皮を張っただけ」の太鼓を

“大地をブッ叩く”“地球を張り倒す”ような感覚で

楽器をねじ伏せ鍛え上げた腕をもって

「大砲」ような音の塊を叩きだすのが

ハードヒッターなのだよ。

まあ、音楽的かは別としてね(苦笑)

こういった感覚にグッときちゃう人に

ピッタリの太鼓がブンブンブだろうな。。。。

2010年7月22日木曜日

Congo(旧・ザイール)までの道 その11 終わり

翌朝、一気にナイロビまで帰る

ウガンダとケニアの国境では

係員達に小銭をせびられ

「ああ、帰ってきたなぁ、、、」と感じる。

一切、賄賂等の要求をされなかった

ルワンダは素晴らしいと思うのだが

こうやって、チャイ(賄賂の隠語)を

集られると妙に和んでしまう僕がいる。

大抵の場合は向こうも本気じゃない。

どれだけ上手にかわせるか?

その辺のやり取りが上手になれば

大して苦にはならない。

最後、ナイロビまでの坂道の途中で

一度、全く動かなくなってしまったが、、、、

僕のデリカもよく頑張った!!

往復2600km、山あり谷あり穴あり、、、

老体に鞭を打ちながら本当に

よく頑張ってくれたと思う。

まあ、兎に角、その日の晩8時過ぎには

ナイロビへ無事に着いた。

僕は、今まで無駄に時間を費やして

あちこち歩き回ってきたようだけれど

その辺の無駄が役に立っている気がする。

こんな事は言いたくないが

悔しいけれど、やっぱし

今年38歳になる僕は

20代のように身軽ではない。

頭も身体も元気が無くなっている。

当り前か!?

だから、この時期に自分で運転して

コンゴまで行けた事は

凄く嬉しい。

また、行きたいな、、、、

2010年7月8日木曜日

Congo(旧・ザイール)までの道 その10

ウガンダでは帰りに「ムパンビレ」という村に寄り

昔馴染みの太鼓職人を訪ねる。

昔、NHKで故・石川晶氏がウガンダを訪ねる番組があり

そこに出ていた老人の叩く太鼓にノックアウトされた。

老人の名前はガイラ翁、太鼓の名前はバキシンバ。

僕は「ンゴマ・ンジョケズィ」なんて呼ぶ。

既にガイラ翁は亡くなり、この村も色々な事が変わっていた。

まあ、この場では「怒り」を極力抑えているので

簡単にしか言わないが、、、、

無知で無責任なバカが世界中で

「Africaの太鼓の代名詞=Djembe」

買い求める事によって

ここでもキチンとした太鼓職人が困っている。

要するに東アフリカにDjembeは無い。

それなのに金を持ったブクブク太った連中が

東アフリカ諸国でもDjembeを買い求めるから

昔ながらの

その各民族の

伝統的な腕の良い職人達が

その技術を捨てて偽物Djembeを作っている。

食べて行く為に。

いいか、

絶対に


間違っても


東アフリカで


Djembeなんて買い求めんなよ


バカ野郎が。。。。



と云う事で、連絡が途絶えた師匠の近況を尋ね

バキシンバ1つと、ナンカサ1つ、アマディンダ(小型)を

買ったらお金が無くなってしまった、、、、参った。

しかし、出発直前までアマディンダの調律を行ってくれた

ピーター達には感謝だ。

その技術を確りと守って欲しいと切に願う。

また、この日は滞在費を1日削るほど

太鼓に散財し、目的地到着前にこの村で

太鼓談義に盛り上がってしまった為に

飯抜きで夜12時まで車を走らせ

ケニアとの国境付近のトロロまで行く羽目になった。

ルワンダのメモ

数年振りに訪れたルワンダは

以前より、痛みの雰囲気が薄れた感じがした。

国は坂道が多く、森に囲まれ、緑が美しく、

女性も非常に美人が多い。

ルワンダ・ブルンジは美人揃いな事を知っている

日本人はどれくらい居るのだろう?

この両国は、実は隠れた美人の宝庫なのだ。

東アフリカ・コミュニティー参加の為か

スワヒリ語も普及し(勿論、キニャルワンダがベター)

僕は不自由なく行動する事が出来た。

不正も少なく、不正の王様(コンゴ)から戻った時には

ここは天国かと思ったほどだ。

車も制限速度60km前後で

ケニアで言うマタトゥもキチンと守っている。

時々、荒い運転をする人もいるが、

殆どの人が安全運転で(見通しの悪い峠が多いから?)

それと、ビニール袋が禁止され

アフリカ各地でみられる

「捨てられたビニール袋のゴミ」がなく。

本当に美しい国だったな。

バイバイ!またね!ルワンダ。

Congo(旧・ザイール)までの道 その9

ルワンダではもう一つの目的

ルワンダのNgomaを観て太鼓を持って帰る事

http://www.youtube.com/watch?v=XVVLhzJH0osで観た

隣国ブルンジとは似て非なる太鼓アンサンブルを

是非、みて帰りたかったのだ。

が、フェリックスに紹介された村は

生憎、太鼓叩き達が教会へ行ってしまい

踊りはナカナカだけれど、太鼓にはイマイチ迫力の無い

モノだったから、残念だったが、

数年前にヒュートレイシーのCD等で聴いた

長いお盆に弦を張ったような楽器の

生演奏を観る事が出来た。

予想通り、音量はそれほどでもないが

まあ、不思議なチューニングと

これほど簡素でありながら

キチンと弦楽器として機能することが

非常に驚きだった。

数回見た後、一緒に参加してキープ役を

叩かせて貰う。比較的簡単なパターンだった為

すぐ覚えらられたし、「ナカナカ上手いじゃないか」と

お世辞も言って貰えたが、叩く棒が太く重く、、、

すぐ腕が疲れてしまった。

改めて「最近、怠けてんな~」と反省。

手頃な大きさの太鼓を3つ買い求め

車に詰め込み、さて、、と。

ナイロビへ帰るか!!

Congo(旧・ザイール)までの道 その8

さて、出会えたコンゴの太鼓叩きは

両頬に穴が空き、パンチの効いた人だった。

韓国かどこかへ招聘された時の写真も

白塗りの顔に針を突き刺したモノで

ナカナカの迫力。

欲しかった太鼓を目の前にして

僕の全身から「これ、欲しいな」という

オーラが滲み出ていたと思う。

その辺が今回の失敗だった。

結局、

その太鼓+大きさの違う太鼓を一式

揃える事は叶わず、そのメインの太鼓だけ

3~4日間のすったもんだの末、手に入れた。

仕事は途中でコケたが、目的の太鼓を手にして

戻ったルワンダのキガリでは

色んな意味で羽目を外し、自分を祝った。

さて、後は帰るだけだ。

2010年7月4日日曜日

コンゴの常識・日本の常識(番外編)

僕はコンゴ初心者なので、、

歴戦の強者達が聞けば

「そんなの当たり前じゃん」程度の事だろうが、、

その1:ビザが無かった!?

一応ナイロビでビザは取れるのだが

蔦田さんにハナシを聞いていたので

国境でとる取る事にする。

ルワンダを無事に出てから

コンゴ側に入ると

”ゾンビ”のように制服達が群がってくる。

曰く「ビザは俺に任せろ!」

軽くいなして打ち合わせ通りフェリックスに頼むと

数分してからビザを貰えた。

が!パスポートには何も無く、、、

紙切れ一枚だけだった、、、

どうやら、これがビザらしい、、、本当かな??

その2:部屋の予約も賄賂次第 

一応キガリの国境越えが専門の業者を通じ

ゴマで一番のホテルを予約しておいたのだが、、、

どのくらいのホテルかと言うと、

大統領や官僚達、後は外人ばかりが泊るホテル。

しかし!受付曰く「そんな名前の予約は無い」

フェリックスさんが幾らか掴ませると、、、

「おお!こんな所に名前があった!!」

しかし! 連れて行かれた部屋は

発電機の上で、、話しもできない(笑)

他の部屋にしろ!と怒っても「満室」の一点張り。

しかし!再び幾らか掴ませると

静かな湖畔の部屋が用意された(笑)

その3:女は黙って酒を注ぐ!

一応ナイロビの夜のオネエチャン達は

「ねぇねぇ、一杯おごってよ!イイでしょ?」といった感じで

色々な事が始まるのだが、、、

ゴマのオネエチャンはイキナリ隣りに座って

俺のビールをを勝手に注ぎ始める(笑)

おい、ちょっと待て!コラ!(笑)とたしなめると

「●×△◎×▼!?」と言って去って行った(笑)

横ではフェリックスが大笑いしている(笑)

いやぁ~ナメられてんなぁ~俺は!!

これがキッカケで毎晩出かけることになる。

その4:ポリへの賄賂は迅速に!! 


日中車で市外へ出ると

各ランドアバウトでポリに捕まる(笑) 


理由は、、、

*飲み水を積んでいない
*窓を開けて走っている
*タイヤが指定のモノではない等、、、なんでも良い(笑)

問題は、、、

ポリは1人2人の内にハナシをつけることだ。

さもないと、、、

ウヨウヨ後からやって来て

「私はこれで良いが、、、他の連中が何と言うか、、、」

という事で手痛い出費を余儀なくされる(笑)

まぁ、ルワンダ・ナンバーの車で

外人の僕が助手席に乗っていれば

そりゃあ、カモだよな。

隠れて上手くやり過ごせても

見つけられた途端!バイクで追いかけて来て

次のランドアバウトで止めるという強者も居た(笑)



他にもか数え切れないほど賄賂を払ったが、、、

フェリックス曰く

「ウチのボスはコンゴ生まれのコンゴ育ちだから、、、」

事情をよく分かっているらしい(笑)

だから、領収書無しの出費もある程度は問題が無い。

僕のボスもコンゴを知っている人で良かった、、、

兎に角、最初は強烈に直接的で面食らったが、

慣れればなんて事は無い。

ポリには平伏して(笑)オネエチャンは上手にあしらい

ホテルの受け付けもNgomaのお陰で仲良くなり。

最終日は凄い部屋に移らせてもらった。

そうさ

僕はいつの間にか、、この国・人が好きになっていたんだ。

Congo(旧・ザイール)までの道 その7

さて、念願のコンゴ(旧ザイール)だ!!

この国は僕にとって特別な国の一つ。

Ngomaの凄腕達がウヨウヨしている。

本当は他の用事で来たのだけれど、、、

途中でキャンセルになり、じっくり太鼓三昧するつもり。

しかし、到着地のゴマは難民キャンプよろしく

なかなかNgoma的な匂いを感じさせてくれない。

賄賂の度合いはケニアの数倍はイクほどの

激しさで、、、

初めてケニアに来た頃を思い出した。

酒場のオネエチャン達や、土産物屋のおっさん達と

ワイのワイのやりながら、お目当ての太鼓にたどり着く。

ドライバー兼、通訳のフェリックスさんのコネが効いた!

なんと翌日にはソノ目当ての太鼓一式に辿り着いたのだ。

しかし、、フランス語は音が美しい、、、

フェリックスさんがフランス語で

美しいコンゴの女性を口説くのをみて

絶対にフランス語を勉強しようと決めた。

ああ、僕にフランス語が出来たら

ありったけの言葉を使って

彼女のう美しさを讃えるのに、、、

こんな気持ちも

初めてケニアに来た頃みたいだ。

うううう、、、ぐやしい、、、

2010年6月30日水曜日

ワールドカップ日本敗退、、、

駒野に対して

「PK外すなよ!バカ!」

それぐらい、なんで言えない?

「頑張った、頑張った」って、、、

頑張るのは当り前。皆頑張っている。

そう言われるのは、そこしか褒める所が無いからだ。

お前らプロだろ?

と俺は思う。

2010年4月24日土曜日

Robert Quine死去、、、

なんだか、、今さらだが、、、

だって、知らんかったんだもの、、、(日本に居なかったし)

2004年に名ギタリストRobert Quineが死んだ。

ヘロインの過剰摂取が原因。

先立たれた奥さんの後追い自殺らしい、、、

なんだか、やり切れないなぁ。

60過ぎのオヤジが、、、まったく。

彼の知名度が低いのと同じで

ほんと、数えるほどしか無いけど

何人かの人がBlogで取り上げていた。

特に

http://www.yamdas.org/bmm/music/memorial.html

はナカナカ良かったが。

代表作にL・Reedとかだけじゃ、、、甘いな、、、

彼みたいな「Rock」なギタリストは

アルバム1枚通してなんて、、、嘘臭い。

したがって、タイトルも覚えていなけれど

昔・J・ゾーンが出した映像用曲集?

みたいなのに、

すっごいテイクが1曲入っている。

本当に凄いテイクだと思う。

2010年4月13日火曜日

Congo(旧・ザイール)までの道 その6

キガリではルワンダ人と結婚し

現地で「Mulindi Japan One Love Project」という

NGO活動をしている邦人女性を訪ね

施設内に車を置かせて貰い、そこの宿に泊まる。

http://oneloverwanda.blog105.fc2.com/

彼女はナイロビにある星野学校の先輩でもあるし

以前、某テレビの取材で一度お会いしている。

お互いの近況を話し、その日はユックリと過ごした。

因みにルワンダは「ピリピリ」が旨い。

大の辛党の僕はアホみたいに使って食べる

ムシカキの巨大版もナカナカ美味しい。

ビールも美味い。

ケニアより美味い気がする、、、

何でだろ?

イギリスの食文化はやはり貧しいということか??

ま、そんな事はさておき、、、

さぁて!明日から初めてのコンゴだー!!

2010年3月25日木曜日

Congo(旧・ザイール)までの道 その5

カセセでは豪華にバスタブ付きの部屋で寝て

夜中に何度か起きて「垢すり、垢すり、、」

気持良いほど垢が出てくる。

標高が高いカセセは森に囲まれ

緑が濃い。

ルワンダ国境まではスグ近くで15分くらい。

今日は気温も低いからデリカも調子が良い。

国境付近では「車輌のクリアランス代理人」達がウヨウヨしている。

即席のフランス語とキニャルワンダを使いつつ、

無事に国境通過。

向こうからやってくる車がエラソーな感じで

道を塞いでいる。「バカ野郎!なめんなよ!」なんて思っていると。

ルワンダは右側通行で、

道を塞ぎ、

クラクション鳴らしまくって

ギャーギャー騒いでいた僕は

バカ丸出しだった、、、

反省。

オフィサーに頼まれて警官を二人乗せ

キガリまでいざ出発だ。

2010年3月18日木曜日

カスビヒルズ炎上、、そして焼失、、

先ずは、

http://english.aljazeera.net/news/africa/2010/03/201031751743701387.html

を見て貰いたい。

原因は未だ調査中だけれど、、、

なんだかなー、、、呆然としてしまう。

ウガンダはブガンダで、キガンダだから、、、

そして、この人達は本当に王様が好きだ。

その歴代のお墓が焼失とは、、、

あー、、、何と言っていいか分からん。

オボテの馬鹿がクーデター起こして、

沢山の宮廷音楽家が殺され、、、

ウン百歳の太鼓・楽器が燃やされ、、、

ガイラ翁も鬼籍に入り、

俺の師匠も太鼓が叩けない大病を患い、、、

あー、、、もう、なんだかなー、、、

2010年3月10日水曜日

Congo(旧・ザイール)までの道 その4

翌日の朝、なんとデリカはちゃんと修理出来ていた!!

片田舎だったが、ウガンダはまだ僕のと

同じモデルのデリカが結構たくさん走っている。

結局は職人の腕なのかな?とも思った。

ナイル川の源流を渡りジンジャを越え

ウンザリするカンパラ市内の渋滞を抜け

一路、カセセまで向かう

カンパラ以西は初めてだったから

結構、ドキドキした。

道路は思ったよりも良い状態で

マサカ~ンバララ間は場所によっては

日本を思い出すくらい整った道だった

が!!時々とんでもない大きさの穴が空いていた!!

デリカじゃなかったら引っくり返っていたかも??

気持良く走っている時にときどき出くわす

この穴には閉口した。

さて、ルワンダ国境近くの町カセセまでは

アップダウンの激しい峠道で、景色は日本の田舎みたいだった

ちょっと疲れ気味のデリカを休ませる為にも木陰で昼寝をした。

さて、明朝はやっとキガリに着くぞ!!

美女が待っている、、、うははははは。

2010年3月5日金曜日

Congo(旧・ザイール)までの道 その3

両側に湿地帯が広がる場所で

ウンともスンとも言わなくなってしまったデリカ、、、

相棒のW氏がタンクからガソリンを吸い出し

直接キャブレターに吹きかける荒業も

結局のところ、吸気系に問題があるらしく

一旦エンジンが掛かるが続かない、、、(笑)

通り掛かりの人曰く「あと1Kmで小さな村がある」らしい、、、

そこまでボーダーボーダー(バイク・タクシーの意)で行き

小さなガレージのフンディ(職人の意)を呼んで来た

矢張り、ここでは修理も何も出来ないので

なんと!1ℓだけペットボトルにガスを汲み

そこから彼の相方が直接キャブにチョロチョロ垂らしつつ

爆音を立て無理やりデリカを動かして1Km走った(笑)

こんな無茶な事をしてエンジンは大丈夫なのだろうか!?

う~ん大丈夫みたいだ、、、、

そして、この晩は表側が安飲み屋で裏がチョンの間と云う

典型的な売春宿で1泊した。

その晩は、ヘベレケになってしまい、、、

あまり覚えていない、、、、

明日には車は直るのだろうか????

2010年2月20日土曜日

Congo(旧・ザイール)までの道 その2

朝6時にボスの家で待ち合わせ

僕の車を約15年運転して来たWさんと

あと2日間は一緒に行動できる。

面倒な故障は、出来るだけ彼が居る時に

一人で鬱蒼とした森の中で立ち往生

なんてのは厭だな、、、とおもう。

そんな懸念はよそに愛車デリカは絶好調!

エルドレットまでの長い上り坂も一気に駆け上がる。

この辺の高原は空気もうまいし、涼しく、景色も美しい、、、

その後、ウガンダとの国境付近では

波打つアスファルトに苦戦したが、、、

無事に国境も通過!

しかし、いつもここでは

「絶対に銀行の方がレートが良い」と分かっていても

闇両替で騙されているな、、おれは。

兎に角、今日中に行ける所まで行くぞ!

とジンジャを目指す僕達。

日が沈み始め、トロロを少し過ぎたあたりで

ああああ、、、故障だ、、、

デリカは動かなくなってしまった、、、

続く

2010年2月17日水曜日

Congo(旧・ザイール)までの道 その1

2月1日から、愛車「ムゼーランドゥ」を運転して

ケニアの首都ナイロビからウガンダを抜け、ルワンダのキガリまで行った。

そこから、キガリにあるマペンダノと云う

オーバーランドを得意とした会社を使い

コンゴ(旧ザイール)のゴマまで行って来た。

自走部分だけで往復2500kmの旅

感想は、、、ムチャクチャ楽しかった!!!

写真が乏しいのが残念だけれど、、、

幾つか続けて書いてみたい。

2010年1月30日土曜日

Ngoma Tour の写真 ~T青年の場合~

ゴンダのカデンゲ・チャディ翁とこの日の人気者“Dance~!!”のオッチャン
  




実際にはこのぐらいの明るさなのだ、、、精霊の棲む場所とは、、、




元祖天才君!? チェンゴ! この夜は気合入っていたなぁ-、、、

 

そして、真打ち登場!! 乾糞の異名をとる我らが“ムゼ―ランドゥ”!!

 

 最後におまけのお茶目な子供、、、ハルシそっくり!?

Ngoma Tour 感想文 ~T青年の場合~

年末から年明けにかけ、かねてから噂に聞いていた、

俵氏企画のンゴマツアーに参加してきました。

コーディネーターである俵氏との山あり谷ありの
 

珍道中の果て、たどり着いた深夜のギリアマの村。

何じゃココは!?とあっけにとられていた時に

モゾモゾと起きだしてきたムゼーとの記念すべき初対面、

目突き、金的ありと容赦のない子供たちと戯れた日々、

そして、あの大迫力の年越しのンゴマ、、、

今も遠い空を眺めながら思い出しています。 

特にあのムゼーの存在感はすごかったなぁ。

普段はヤシ酒ばっかり飲んでグダグダな感じなのに、

ンゴマになると周りの空気まで変えてしまう圧倒的な存在感、

やっぱりそれがムゼーなんでしょうね。 

ランプ一つの灯りの中、次々と繰り広げられたンゴマ、

自分が何処にいるのかも忘れてしまうほど幻想的で、

大迫力のあの空間の一部であったことは、

ものすごく貴重な経験であったと感じています。 

そして、このツアーを紹介して頂いた俵氏に大感謝です。

ありきたりな言葉だけど、一生忘れられない年越しになるでしょう。
 


こんな感じでいいですか? 俵さん?  

 

2010年1月25日月曜日

Ngoma Tour 感想文~YOSHIKOの場合~

以前から参加したいと思っていたンゴマツアーに

やっと初めて参加させていただき、

本当に最高の年越しをさせて頂きました。

ランプ一つともされた中で始まったンゴマ。

胸の奥に響く太鼓の音と、目が離せず、釘付けにされたダンス。

神秘的でもあり、とても人らしくもある空間。

ンゴマを全身で感じながら、

私はなんてすばらしい経験しているんだろうかと 

自分自身に確認させました。

歌い、踊りながら年を越し、今年はいい年にならない訳がないと思いました。

そしてあの村はンゴマだけでなく、

何よりも人々がすばらしいとも思いました。

 人懐っこくかわいい子供たち。

これだけ外国人(日本人)が出入りしているにもかかわらず、 

すれない青年たち。

いつも笑顔で迎えてくれるママたち。そして何よりも偉大な存在感のMZEE

村の人々の心が温かく、ステキな人ばかりだからこそ、

すばらしいNGOMAが生まれ、

代々受け継がれてきたんだと思いました。またあの村に行きたい。

またンゴマツアーに参加したいと思えるステキなツアーでした!

YOSHIKO

2010年1月18日月曜日

新年のご挨拶と共に、、

2010年は怒涛のNgoma Tourで迎え

その報告もしなければ!!!

と思いつつ、別件で再び車を走らせてGEDEへ向かう事に、、

色々と準備時間が少なく、

大変だったけれど、結果として「やって良かった」と思える仕事だった。

でも、

今さっき、車を走らせてナイロビに帰って来たばかりで、、、、

今日は、この辺でご勘弁を、、、

新年、明けましておめでとうございます。